このホームページの「Works」の、いちばん古いところに載せてある「佐久の住宅」の昨日の外観。
11年前にクライアント(まあ私の両親なんですけど)が佐久に移住するために建てた家だ。まだ建築学科の学生だった私が基本設計をした。
いま見ると、もうちょっとこうしておけば、、と思うところも多々あるけれど、実施設計を引き受けてくださった地元の設計事務所、また、やはり地元の工事チームのご協力のおかげで、クライアントは大変快適に暮らしている。
先日、この住宅の、2004年の竣工時の外観写真が出てきて、現在との雰囲気の違いに驚いた。
あまり違ったので、室内の竣工時の写真も探し出して、今と比べてみた。
ひさしぶりに訪れた人が、11年も経っているとは思えない家だね!と言ってくれたけれど、写真で見比べると違いは歴然。
木材の色もすっかり変わって、汚れも付いて、住民のラフな性格を反映した生活感はざくざくあふれかえって、、、
でもどちらがいいかといえば、まっさらの新築時よりも、今のほうがいいと私は思う。
実施設計でお世話になった地元の設計事務所に久しぶりに伺ったら、この東信地方は新築住宅件数中のハウスメーカー受注割合がとっても高い地域なんですよ、と教えてくださった。ハウスメーカーで建てる家との違いをどう伝えるかが課題、とも。
思い切って言わなければいけない時は、時間が経つほど良くなります、と言おうと思う。物質としての建築のパーツが劣化の一途をたどるのは、あらゆる建物に共通の現実だけれど、ただの劣化ではなく、時間が経つほど心地よくなじんでいく。
完成イメージや仕様をすみからすみまで説明するカタログやモデルハウスのある既製品寄りの世界は、カタログ通りに出来上がった瞬間がいわば完成。一方、設計事務所がゼロから考え、施工者が材料と技術を持ち寄って作る住宅は、建物が完成しても、まだ未完成。
楽器をチューニングして良い響きが出るような、あるいは、鉄鍋に油が馴染んで使いやすくシーズニングされていくようなものかもしれない。そこにしかない空間を、使い手が時間をかけて使い込み、その環境での四季を経るほどに、チューニングというかシーズニングされて「場所」になっていく。そうしたチューニングやシーズニングに耐えうる空間を考えていくのが、自分の役割であり目標かと。感じております。
この雑然とした生活感あふれる玄関も、ここならではの光や音の響き方、木材の香りに季節ごとの薪ストーブや料理の香りがまざって、ここんちに来たなーとみなさんほっとしてくださるみたいです。