前回の記事で、ヤマザクラが先でソメイヨシノが後に咲くと書いてしまいましたが、間違いでした。
しだれ桜やソメイヨシノが咲いた後にヤマザクラ。
去年の春があまりにばたばたしたので、記憶も荒れているらしい。東京から長野への引越しの荷物の授受や、東京に戻っての仕事の用事や手続き、御代田に戻っての新居での整理や手続きがモザイク状に入り乱れて、いまスケジュール帳を見返してもおそろしい。
今日の雪窓公園は、前回の写真と見比べると、一気に芝生の緑が濃く、しだれ桜は見事に見頃だ。
佐久市のほうでは、昨日すでにソメイヨシノが満開であちこちに雲が浮いているようだったが、御代田はやはり一歩遅くて、今日で3〜5分咲きといったところ。
浅間山の雪もすっかり減って、窓の外には、シジュウカラやエナガ、メジロが夫婦で飛んで来て、直近でやたらかわいい動きを見せるので、ついiPhone片手に立ち上がることもしばしば。窓越しだしズームしても小さいしで、ろくな写真は撮れないのですが。
昨晩(14日)ふと見た携帯のニュース画面に「震度7」の文字があった。それを見ているうちにも余震と被害状況のニュースが次々更新され、あまりに急で正直なところ頭にしか入らなかった。一夜明けてそれが胸のあたりに落ち、昼間に春の公園を下校の小学生に混ざって歩いているときに、お腹のあたりに落ちてきた。
災害にあって損なわれたあたたかい日常への想いと共に、不安と悲しみ。
自然の風物に人格や神格を投影して歌や物語を紡いできたこの国の文化を、微かにでも受け継いでここにあるはずの私には、自然の営みが、いかに人の予想もつかず力も及ばないものかを、自然から繰り返し示されているように感じられる。と今言うと、役立たずに感傷的すぎるのかしら。
やっぱり私たちは、期限付きの外部からの刺激に得体の知れない期待を寄せてざわついている場合じゃないような気がする。こういう力の及ばない自然の中に暮らしていくことについて考え、社会に山積みの困難な課題から目をそらさず、専門家の知見に注意深く耳を傾けつつ一人一人も何が必要なのか探り、、、。
唐松もふんわりとこそばゆい感じに芽吹き始めたんですが、写真だと相当分かりづらいのが残念。
秋冬の夕暮れと違って、春の日没はそれほど寂寥感がない(当社比)。