2月最終日の朝、起きてカーテンを開けたら、なんだかすっかり春の青空だった。光の感じも、雲の感じも、梢の感じも、冬の凍てつく青空とは違う。
冬のきりっとした青空も、それはそれで美しくて好きなんですけどね。
あらあら、もう春が来てるじゃない、と思いながら視線を地面に落としたら、夜のうちに雪がちらついたらしく、粉砂糖をはたいたように茶色の地面の上に白がまぶされていた。・・・まあ本格的な春はまだしばらく先かな。と思い直してゴミ出しに出かける。それでも数百メートル先の集積所まで、コートの前を閉めずに歩いて行って帰ってきても全然平気なので、やはりだいぶ暖かい。ちょっと前までは、すぐそこまでだし、とコートの前を開けたまま出発して、「凍る!」と慌てて路上でゴミ袋片手にコートをかき合わせたりしていた。
まあだいぶ暖かいといっても、8時にベランダの寒暖計を見てジャスト0℃というレベルの暖かさ。
そういえば子供の頃に読んだ「大きな森の小さな家」で、春先に思い出したように降る雪を砂糖雪と呼びます、という話があったなと思い出す。芽吹きの準備で活発になったカエデの樹液が、この急な雪で戻ってきて、それを採取してメープルシロップを作るから、という季節の行事の描写だった。
真冬の眠った感じの梢とはなんとなく違って見えるのも、長くなってきた日差しをあびながら、樹木の内部でじわじわとエネルギーをためているからだろう。
まだまだ地面に雪が多かった1月のある日、窓の外のベランダの床が見慣れない恣意的な感じになっているのが視界に入って、「誰かのいたずら?」と思って二度見したあげく、面白くて写真を撮った。前の晩にふんわり積もった雪が、朝の一瞬の晴れ間から当たった日差しの熱で、手すりの桟の影の形をくっきり残しながら溶け残っていた。晴れ間がほんのいっときだったのが多分ポイントだろう。太陽の光の向きはたしか「およそ360度÷24時間」で1時間に15度くらい移動するわけだから(このあたり苦手なのでちょっと間違ってるかも)、2時間くらい当たれば影の模様は残らずまんべんなく溶けてしまうはず。
太陽から宇宙空間を越えて届く光が、熱でもあるというのが、当たり前のことではあるのだが、こうして実感するたびになんだか幸せな気持ちになる。コストパフォーマンスの良い幸せだ。そして北半球のこの地では、冬至以降に日照時間がだんだん伸びて、入射角も大きくなって日射取得量も増え(このあたり苦手なので・・以下略)、地上に熱がだんだん溜まってきて、朝の青空がふんわり柔らかくなるし、私はコートの前を開けてゴミ捨てに行くし、木々は梢にエネルギーをみなぎらせる。
長野県は去年から住宅でも規模に関わらず設計時の省エネ検討が努力義務となった。正直なところ手間が増えて面倒ではあるのだが、感覚的に認識していたことを数字の結果で見るのはちょっと面白い。先日、計画中の住宅の熱の出入りのチェックの中で、窓からの日射取得熱を計算する課程があり、そのプログラムに従って計算してみたら、南向きの中くらいの窓と、東向きの少し大きめの掃き出し窓の取得熱量がだいたい同じだった。「おお!やっぱりあってよかったこの窓!」と、ついクライアントに方向したくなって説明したのだが、いきなりそこだけ言われてもぴんとこなかったかも。。。すみません。
五人囃子の真ん中の人。「なんか小鼓が見当たらないのよねえ、、、梱包材にまぎれちゃったんだと思うから、仕舞うときには出てくるはず(母談)」といことで、今年の彼は、きりっと「エアー小鼓」です。
日差しとひな飾りで、実家の室内も春めいてきたところで、明後日はひな祭り。私は花粉症のくしゃみがスタートした。